こんにちは。
今日は朝からバスのトラブルで大遅刻をしてしまいました。
突然バスが停車して、そのまま20分程全く動かなくなりました。
その時トンネルの中にいて左右は壁しか見えず、前方は別のバスが停車し前も見えず、後ろの窓は私の席から見えなかったので、四方を塞がれた感じになりました。おかしいな、と思った時にはすでにその状態で、他にも気付き始めた乗客が何やら運転手に尋ねています。
首を振って席に戻る姿から何かしらのトラブルがあった事を察しました。その内に前方のドアが開き、整備員の様な人が大きな声で何かアナウンスしていましたが、英語がまだよく分からない上にうるさいエアコンの真下にいた私には全く聞き取れませんでした。
まぁでも私が乗っているバスにトラブルが起きた訳ではなさそうだし、他の乗客も落ち着いていたので大人しく待つしかありませんでした。
バスは結局いつものルートから外れて迂回しながら何とか学校に着いたんですが、1時間半の遅刻でした。担任に拙い英語で言い訳して途中参加で授業を受けました。遅刻は特にペナルティの様なものはありませんが、授業の途中から参加すると今何をしているのか把握するのに時間を要し、しばらくついて行けないので嫌なんですよね。
バスの遅延本当に多いです。もはや時間通りに来ることがまずないので、それに合わせて家を出たりします。
でもたまに早く出発することもあって、それはさすがに待ってて欲しいものです。
さて、今日は性差について。難しいことではなく最近私が思っている事です。
女の子と男の子の違い
我が家には年子の女の子と男の子がいます。
面白いのが、二人の好みが全く違い、分かりやすく性差を感じること。
私達は、いつの間にか持っている女の子らしさや男の子らしさがありませんか?
分かりやすいのが色です。我が家の長女はピンクが大好き。長男は黒や青が好き。
長女は分かりやすくキラキラしていて小さくて可愛いものが好きだし、長男はカッコよくて強そうなものが好きです。長女はずっと座ってお絵描きや制作をしているけど、長男はずっと何かと戦っています。
もちろんそれぞれ性格もあるので一概に言えない事ですが、かなり顕著に性差を感じます。
長女は赤ちゃんの頃から私の好みでユニセックスな服を着せることが多く、可愛いスカートからメンズライクな服まで性差に関係なく着せていました。大抵の衣類はそのまま長男へお下がりになりました。最近は成長するにつれて本人の好みの服を選ぶようになりました。
長男はオーストラリアへ引っ越すまで一度も髪を切ったことがなくて、ロングヘアでいつも髪を結んで保育園へ通っていました。洗うのも乾かすのも大変で切りました。
長女はロングヘアがいいというのでそのまま。
私は先入観なく育てたいという思いもあって、女の子だから男の子だからとあまり決めつけないようにしていましたが、周りからは長男は髪切らないの?女の子みたいと言われる事が多かったです。それは批判的な意見ではなくて単に疑問だったんだと受け取っています。
でも髪が長いと女の子なんでしょうか?男の子だから短く切るの?
と不思議に思ってました。
我が家は子供たち二人の名前も、男でも女でもないどちらでも良い名前にしました。それは別に性別にこだわった訳ではなくて、たまたま気に入った名前が結果的にそうだっただけです。
なぜ男女差が生まれるのか。それは必要?
ネットで長女の服を検索しようとすると、ガールかボーイのカテゴリーを選択するようになっているから好みのものが見つからず、ボーイを選択していた事もあります。
この性別による区別はどこから生まれてくるものなんでしょう。
母親目線で言うと、保育園の制服が長女はスカートでしたが、園児がスカートで遊ぶのはちょっと難しい気がしました。下着も丸見えになってしまいます。長男は短パンでしたが、その方が動きやすそうでした。体操服は同じ短パンなのに、なぜ制服は別なんでしょうね。
私は見た目が可愛いスカートも好きですが、動きやすさで言えばパンツタイプの方が機能的に良い気がします。
私が高校生の頃、修学旅行で真冬の長野県へ行ったんですがスキー研修があって、山上のホテルまで吹雪の中リフトで上がったことがありました。その時制服着用でしたが極寒の雪山で、素足で移動させられたのを今でも憎い気持ちで覚えています。男子は学ランで、寒いのでズボンの下にジャージを履いている子もいました。女子は規定の白いソックスのみだったので、寒くて痛くてたまりませんでした。
服には様々な意味があり、表現の一つですが、寒さや暑さなどから身を守る役割もあると思うのですが、その時は全く役に立ちませんでした。そういった理解に苦しむルールが私には苦痛で、視野の狭い考え方が根付いている日本は少し息苦しかったです。
この性差は持って生まれるものと環境要因とがあると思いますが、私は意図的に性差をつけないように育ててきたつもりなんですが、気がつくとしっかり性差が出ていました。これは単純に不思議だな、と思うんです。どこでそうなったんでしょうね。批判的な気持ちではなくて、ただ不思議な気持ち。
気付かぬうちに強要されていた女らしさと男らしさ
私の生まれは九州の田舎で、特に男尊女卑というか性差をはっきり区別された環境で育ちました。私には二つ年上の兄がいますが、絵に描いたような九州男児の父親は兄に長男らしさや男らしさを強要しました。
兄はどちらかといえばインドア派で、家でゲームしたり勉強が得意でしたが、父親はスポーツを勧め、やりたくもない野球をやらされたりしてました。父親としては息子とキャッチボールするのが密かな夢だったのかもしれません。兄は高校生の頃自然気胸という肺の一部が潰れる病気にかかり二回手術を余儀なくされ、そこからは一切運動を強要されなくなりましたが、やりたくない事を強要されたせいか今ではスポーツ観戦すらしません。
私はといえば、高校生の頃の門限は18時半でした。門限を守らないと携帯を没収され怒責され、口ごたえすれば殴られました。兄は門限を設定されたことはありません。
一般的に性被害など女性の方がリスクがあるのかもしれません。女の子の母親としてそれは理解出来ます。ただ、父親が強要したのは、男らしさや女らしさだった気がします。当時はそれに気づかず、ただモヤモヤと鬱憤を溜め込んでいました。
性差に関係なく誰かを大切にできる気持ち
性別があり、人体の構造として違いがあるのは確かで、そこにある程度の差が生まれるのは仕方ない事だと理解しています。でもあえてその違いで大きく区別しなくてもいいのかなとは思っています。
LGBTについてもよく考えます。
オーストラリアに来て、語学学校で出来た1番仲良しのコロンビア人の友達がゲイなんですが、私は彼がとても好きです。優しくて冗談好きで、真面目で働き者でおしゃれで凄く気が合う。彼は特にゲイである事を隠してなくて、よく恋バナなんかもします。性別ではなくて彼本人が好きなんです。でも、彼がゲイだから近しい関係でいられるのかなと思ったりもするんです。挨拶で抱き合ったり、くっついてひそひそ話をしたりするんですが、相手が異性愛者の男性だったらそうもいかないのかもなと思うんです。彼とは女友達と同じ感覚で仲良くなれた気がしています。
オーストラリアは同性婚が合法化されてまだ新しいですが、日本でも話題ですよね。個人的には賛成でも反対でもないです。ただ、病院に勤めているとよく思いますが、正式な家族でなければどんなに近い存在でも同意書にサインは出来ないし、面会不可の場合もあります。本人たちの立場からすれば、それはちょっと不利な事だなと思うし、もし自分の子供たちが同じ様な立場だったら苦労するだろうと思うので、もっと寛容になればいいかなとは思います。
まとまりのない話になりましたが、私は子供たちが例えどうなろうと、何を好んで選ぼうと構わないと思っているという事です。息子がスカートを履こうが、長女が坊主になろうが、LGBTでも構いません。普段から二人を見ていてその違いに不思議な感覚を抱いていますが、私は別に例え好みが反対だったとしても構わないと思っています。
でも、相手は誰でもいいので大切な人を持って欲しいし、その人に大切にされていて欲しいなという願いはあります。誰かを思う気持ちを持てるように育てたい。
そして、私や兄がかつて強要された男らしさや女らしさのような概念に囚われずに生きてくれたらいいなと思います。そんな世の中になるといいなと思います。
コロンビア人の友達にも素敵なパートナーができるといいな。
良いか悪いかという事ではなくて、私にはずっと抱えている全てに対する反抗心のような気持ちがあります。その私の根底にある反抗心はおそらく、間違いなく、親から植え付けられたものです。
その反抗心から、自由でいたいし、子供たちに自由でいて欲しいという気持ちが強すぎるあまり子供たちに自由を強要する事になりそうで、そこが少し心配です。
子育て難しいですね。
ではまた次回に。
本日もお読み頂きありがとうございました。